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マカロニほうれん荘 1〜20話

■001話 夢と希望の新学期 77/05/16(21号)

例えば「サザエさん」や「クレヨンしんちゃん」は作品世界内で登場人物が年を取らないが、「マカロニほうれん荘」は人が年を取っていくマンガなのではないだろうか。一話読み切りのいわゆるギャグマンガであるにも関わらず。
現実の時間の流れと作品内の時間の流れが同じスピードではないかも知れない。しかし作品内でも歳月は過ぎている。
その例証としては、入学時点で15才だったそうじくんは14話では16才と表記されている、そうじくん・弘美ちゃんとテディ・ボーイ・ギャング団は95話で和解する、短大生トリオの一人由紀子ちゃんは100話で結婚する、敦子ちゃんはそうじくんに何度かふられたあと大人しくなってしまう……などが挙げられる。
つまり、「マカロニ」の世界は同じ状態が永遠に続いている世界ではなく、ある場所である時期に1回だけ起こった出来事の記録だと思えるのだ。これはこの作品に描かれていることが全て過去のこと(思い出)で二度と取り戻せないということだから、大変に悲しいことでもある。

さて、それならば、主な登場人物の年齢を連載開始時1977年4月時点での年齢だと考えることもできるため、彼らに生年があることになり、ある程度特定もできるわけだ。それを確認してみよう。最後の数字は2017年4月現在の年齢。

そうじ…1961(昭和36)年4月〜1961(昭和36)年7月生まれ 55才
きんどー…1936(昭和11)年4月〜1937(昭和12)年4月生まれ 80才
膝方…1951(昭和26)年4月〜1952(昭和27)年4月生まれ 65才
かおり…1953(昭和28)年4月〜1954(昭和29)年4月生まれ 63才
クマ…1936(昭和11)年4月〜1937(昭和12)年4月生まれ 80才
文子…1954(昭和29)年4月〜1955(昭和30)年4月生まれ 62才
由紀子・そう子…1957(昭和32)年4月〜1958(昭和33)年4月生まれ 59才
ルミ子…1958(昭和33)年4月〜1959(昭和34)年4月生まれ 58才
弘美・敦子…1961(昭和36)年4月〜1962(昭和37)年4月生まれ 55才

そうじは14話で16才と記載があるので少し幅が狭い。文子先生は7話で落第生2人と面識がなかったため新人教師だと考えたが、他校での勤務経験があるなら上記は当てはまらない。きんどーさんとクマ先生は第二次大戦の経験者(終戦時7才か8才)である。

では、前置きが長くなったが、以下第1話について。

扉絵:絵柄が違うので後から描き下ろしたとわかる。昭和52年11月10日初版なので、20話台後半の頃の絵だろう。文庫版選集では雑誌掲載時の形になっているようだが、右ページ始まりだ。当時の漫画雑誌ではこんなこともあったのか?(今でもあるのか?) したがって新書判では3ページ目以降左右ページが逆になっている。

1巻10ページ4コマ目:野菜のほうれん草の漢字表記は下宿名と同じ漢字「菠薐草」で正しいらしい。13ページでかおりさんの祖父が命名したとされている。おじいさんはユーモアのセンスがあったようだ。

1巻11ページ4コマ目:当時、親元を離れ下宿生活をしている高校生はたまにいたが、出身地が離島だとか、親が転勤になったが翌年受験なので環境を変えないためにというような理由だった(現在の下宿高校生についてはよく知らない)。そうじのようなごく一般的な上京/下宿は通常大学生や社会人になってからである。一日も早く親元を出たい独立心旺盛なティーンエイジャーにとって高校入学時での下宿生活は大抵叶わぬ夢であり、この設定はこの作品が一種の夢物語であることを表している。
他にも、下宿先に破天荒で楽しい先輩がいたり綺麗なお姉さんがいたりと主人公に都合の良い要素があるのは夢物語だからだ。

1巻11ページ5コマ目:そうじは絵を描くのが趣味である。すなわち大雑把に言って、漫画家である作者は自身をそうじに投影している。作者も読者もそうじとともに菠薐荘やピーマン学園を訪れ、驚くべき二人をはじめ様々な人と出会っていくことになる。すなわち、出発点ではこの作品はそうじの体験談だった。

1巻15ページ6コマ目:ここで早くもマカロニほうれん荘を特徴づけるギャグパターンが登場する。作中では「ノる」「ノセる」という言葉で表現される、今現在の状況から別の演技空間に、関係する人全員がずれていき、最後はノセられた側が我に返って「こんなことしてる場合ですか!」などと突っこむ笑いの手法だ。ずれていくのはきんどーさんと膝方さんだけのことも多々ある。
ただしここではまだこなれた感じはせず、そうじがノセられる瞬間にかなり不自然さが残っている。

この手法について心理学者の故・河合隼雄が分析している文章があるので、ちょっと引用してみよう。

「筆者(河合さん)はこれが漫才の手法によっていること(中略)に気がついた。(中略)漫才はストーリーの構成ではなく、連想の流れの面白さで勝負する。『マカロニほうれん荘』は、連想の世界を大胆に映像化している。」
「戦車に乗っていたはずの二人は、知らぬ間に息子に呼びかける母親役の方になっている、という変わり身の早さである。考えてみると、これは漫才師の役割である。彼らはつぎつぎと異なる人物を演じてみせつつ、連想の奇抜さで聴衆に笑いをもたらす。」
────河合隼雄「書物との対話」(潮出版)

漫才でよく、それまで舞台上で喋っていた漫才師Aと漫才師Bが、Aの「そう言えば昨日道でCに会ってね」の一言で場面が昨日の路上に変わりAとCの会話に移行する(つまりBがCの役を演じ始める)などというものがある。その手法を応用したのがマカロニの「別場面スリップ法」(?)だというわけである。
連載当時は「ガキデカ」の会話がまるで漫才のボケとツッコミだとよく指摘されていたが、マカロニはそれをさらに進めたものだと言えるのかもしれない。

1巻18ページ5コマ目:きんどーさんの性については、今ならトランスジェンダーと言えばよいだろう。当時はそういう呼び名もなかったので不思議な存在だった。このコマではゲイのように描かれているが、銭湯で女性の裸を見たがっている回もあるのでバイセクシュアルなのか? いずれにせよきんどーさんの性指向については以後はほぼ触れられていない。
彼がこだわっているのは、女言葉で話すこと、女性用の下着を身に着けること、乙女として扱われること。そうでないと落ち着かないのだろう。
数としては少数者だから身近にいることは少ないのだろうが作者は生き生きと描いている。また、きんどーさんが性的属性をもとにあれこれ言われることが全編中一度もないのは素晴らしい。みんなきんどーさんをきんどーさん個人として扱っている。

1巻18ページ1〜3コマ目:ここまで、そうじときんどー・膝方、両者は別々の世界に住んでいたが、きんどー・膝方に呼応してそうじが手を差し出すと二つの世界はつながり、夢の世界が現実の世界となる。そこにあった境界線は、自分が拒否すれば相手も拒否し、自分が受け入れれば相手も受け入れるという、自らを映す鏡だった。そうじはただ心をフラットにし自分を相手に委ねた“だけで”境界を乗り越えることができたのだ。

1巻18ページ6コマ目:こんな問題のあるセリフもある。以降も性のことに限らず、現在の目で見てこれはちょっとというようなシーンやセリフは時折出てくるが一々は言及しない。

1巻20ページ5コマ目:そうじが「おかあさん……」「おかーさーん」という言葉を発するシーンは前半にはしばしばある。のび太のような、ちょっと甘ったれた性格を持たせたかったのかも知れない。
また、回を重ねるにつれ風貌が昔の冒険マンガの主人公のようなツルンとしたものになっていき、それはそれでかわいいのだが、初期の頃は男子高校生としての生々しさがあるように思う。

第1話なので随分長くなってしまった。以後は各話こんなに沢山は書きません。

■002話 泣くな!そうじ 77/05/23(22号)

旧日本軍や戦時中の格好をして軍事訓練(?)をする回なのだが、旧軍に対する批判も共感も特段感じられない。ミリタリースタイルは純然たる遊びの要素なのだ。
警察沙汰になるほどまでに悪ふざけを追求する二人一流の遊び方もここで既に完成の域にある。

1巻22ページ:多分編集部からサジェッションがあって描いたのではないか。思春期男性の古典的妄想。そうじのかおりに対する憧れの気持ちを表現してもいる。

1巻32ページ6コマ目:背景にテディ・ボーイ・ギャング団が登場している。森田くんと沢松くんはサングラスなし。

1巻36ページ4コマ目:マカロニ前半においてかおりはそうじを守ることを自らに課している。

■003話 愛と苦悩の授業 77/05/30(23号)

徹底的にギャグが続く。センチメンタルな要素がなく、かなりハードな回である。

1巻47ページ6コマ目:きんどーさんの他、このチューリップ熊美、マンモス稲子、男装のかおりなど性横断的なキャラクターがマカロニはじめ鴨川マンガにはよく登場する。

1巻48ページ3コマ目:クマ先生が身につけている下着っぽいものは、米国の女性ロックバンド、ラナウェイズのヴォーカリスト、シェリー・カーリーのステージ衣装。
5コマ目以降はクイーンのフレディ・マーキュリーの衣装になっている。

しかし、容貌を笑うのは今となっては……。あと、辛口で申し訳ないが、女性の服が破かれているような絵もあまり気持ちよくない。

■004話 湯上がりに泣いた! 77/06/06(24号)

ギャグが非常に多く、前回に引き続きハードな回。連載開始直後とあって物凄いブッ飛ばし方だ。

1巻55ページ3コマ目:同じ銭湯、同じ番台の親父が82話にも登場する。登場回数の少ない人物も同一性が保持されていて、丁寧に世界が構築されている。

1巻60ページ2コマ目:「○○ですかっ!」というツッコミはこの作品の大きな発明だ。非常に多用されマカロニほうれん荘の世界を形作る柱となっている。漫才の「あんたは○○かっ!」というツッコミを発展させたのだろうが、それよりもノーブルというか格調高い。

■005話 華麗なるアイスコーヒー! 77/06/13(25号)

扉絵:非常にセンスのいい扉絵。ソニー・クラークの「クール・ストラッティン」がちらっと思い浮かぶが、鴨川先生のオリジナルなんですよね? 
タイトルは作中でリクエストされるレコードにちなんだもの。

1巻68ページ1コマ目:「アップルハウス」の名の由来はわからないが、ビートルズの設立したレコード会社「アップル」からだろうか?

1巻71ページ2コマ目:「トシちゃん、かんげきー!」が発せられた最初のコマ。歌手の西城秀樹が70年代前半に出演したカレールーのTVCMに「秀樹、感激!」というセリフがあり、それと少し似ていなくもないが、以後はもっと絶叫調で独自のものになってゆく。

1巻71ページ4コマ目:雅子さんはこの回以降の描かれ方からして多分かおりさんの幼なじみ。

1巻72ページ4コマ目:バミューダトライアングルは船や飛行機が消失してしまうと言われる大西洋上の三角形の海域。70年代はこういうオカルトっぽい話題が多かった。44話にも言及があり、60話ではタイトルになっている。ロックバンド、フリートウッド・マックにも同名の曲がある。

1巻72ページ6コマ目:膝方に女性をひきつける魅力のあることが言及されている。

1巻72ページ7コマ目:よく知られていると思いますが、ロックバンドのクイーンが来店する。左から二人目がクマ先生のモデル、フレディ・マーキュリー。

1巻73ページ7コマ目:きんどーさんの台詞は、同時期のチャンピオン誌に「エコエコアザラク」も連載されていたことを踏まえてのものだろう。

1巻78ページ6コマ目、79ページ2コマ目:突っ込む側も衣装を変えるスタイルがこのあたりから導入されていく。

全体を通して、きんどーと膝方に対しかおりと雅子の間に温度差があることがわかる。
また、学校が舞台でないためかこの回は少し大人っぽい雰囲気があり、青年誌のナンセンスマンガといった趣きだ。

■006話 負けるな!ひざかたさん 77/06/20(26号)

もともと左ページ始まりだったのではないだろうか。つまり82ページが左だったということ。

前半は舞台劇のような面白さ。
ラストは何ら落ち度のないクマ先生がものすごく酷い目に遭ういつものパターン。作者は非常にサディスティックでほとんどイジメに見えるのだが、これがこのマンガにおけるクマ先生の役割なのだろう……。

■007話 第三次爆笑大戦 77/06/27(27号)

初登場のこの回では文子先生は結構トンデモな教師で、存在自体がギャグになっている感がなきにしもあらず。読者もやがて慣れてしまうのだが。

扉絵:「ふしぎの国のアリス」をこのマンガのキャラクターで展開していると思しい。膝方さんは、蝶の羽根が生えているのが妙だが、「帽子屋」だろう。

1巻104ページ4コマ目:同じギャグが53話にも登場する。

1巻105ページ4コマ目:童話的要素の導入。これもこの作品の特徴の一つ。

1巻108ページ4コマ目:文子先生は膝方さんに対する切り札であり、極端な美人であり、全編通して恋愛のゴタゴタに巻き込まれることもないクールな立場にある。脚本としてみた場合はかなりの儲け役と言える。

1巻111ページ1コマ目:自衛隊がミサイル攻撃してきて、全員が煤まみれになる(程度で済む)。マンガ独自の表現。

■008話 モテモテのトシさん 77/07/04(28号)

1巻125ページ1コマ目:クマ先生が素でも女性言葉になっている。

1巻127ページ:きんどーさんの右にいるのはベイ・シティ・ローラーズ、左はジェフ・ベックか? 1階ネット付近にいるのはポール&リンダ・マッカートニー、体育館外の右上にはミッシェル・ポルナレフの顔が見える。あとはわかりません。

このあと女子バレーボール部は35話に登場する。作者がバレーボールにあまり詳しくなかったためか、部活での登場ではない。
部員の中では121ページ5コマ目以降や122ページに登場する理佳子ちゃんというキャラクターが鮮烈だ。お調子者で膝方さんの菱形の口を真似している。レギュラーキャラクターの誰ともはっきり異なる性格であり、もっと登場させても活躍しただろう。作者の人物造形力の底知れなさがうかがえる。彼女のみ13話と16話の扉にも描かれている。
5番をつけたキャプテンらしい人や4番の人も時々見かける。

■009話 無敵のひざかたさん 77/07/11(29号)

しだいしだいに深まってゆくマカロニの世界。

かおりが、そうじや雅子には関わりになるなと言いながら、自分は膝方に空手の特別コーチを頼んでいる。武芸家としての彼を高く評価しているらしい。
ここまでの設定から言えば矛盾するのだが、人物の描かれ方が重層的になってきて、ギャグ一辺倒の世界から、人間の営む、よりリアルな生活空間が感じられるようになりつつある。

かおりの空手は45話他あちこちで片鱗が見られる。この設定で彼女の「強い」イメージが強調されている。空手を始めた動機は描かれていないが、全編読んだ後では膝方に関係する何か、例えば憧れなどが彼女の中にあったとも考えられる。

■010話 ドシャぶりロック 77/07/18(30号)

膝方さん活躍の回が続く。

2巻32ページ2コマ目:「ながしま(長嶋)」は当時のプロ野球巨人軍監督、「たかだ(高田)」は同じく当時の巨人軍選手。「ほししんいち(星新一)」はSF作家。「おのこうせい(小野耕世)」は漫画/映画評論家・日本マンガ学会現会長。

■011話 哀愁の浜辺 77/07/25(31号)

青春爆発、フェロモン出まくり、生命賛美の明るい回。これぞ少年マンガである。
女子大生三人組が初めて登場するが、膝方に対する感情はまだ恋愛までいっておらず、純粋に性欲だけだ。

また、扉絵には後に続くストレンジな感覚が現れてくる。作中人物でない女性が中央に大きく描かれた図は当時の読者を面食らわせたに違いない。だが考えてみれば、レコードジャケット(特にジャズやラテンなど)ではプレーヤーでないモデルを使ったデザインはごく一般的なもので、これはそういった音楽の手法の応用だとも言える。ロックでその種のデザインと言えば、膝方のモデルになったブライアン・フェリー率いるロキシー・ミュージックの諸作が有名だろう。

■012話 地上最強の男 77/08/01(32号)

扉絵:膝方の外見がかなり垢抜けてきた。作者はインタビューで膝方のモデルをブライアン・フェリーだと言っていてこの辺りからは確かにそう見える。フェリーの口髭はアルバム「レッツ・スティック・トゥゲザー」(1976)、サングラスは「イン・ユア・マインド」(1977)のそれぞれジャケットで見ることができる。ただフェリーの活動期間の中では髭も眼鏡もほんのごく一時期見られるに過ぎずトレードマークでは決してない。
連載開始当初の膝方はもっと日本人ぽく70年代初頭のバンカラ学生のようだ。当初は俳優の藤竜也をモデルにしていたのではないかというのが私の想像である。理由は1974年のNHK大河ドラマ「勝海舟」で土方歳三役を演じたのが藤竜也だったから。ほとんど根拠と言えないような当てずっぽうですけど。藤も口髭を蓄えておりサングラスをよくかけている。

右下のコマは、ロック・バンド、ブロンディを下敷きにしている。そうじやかおりの表情が興味深い。彼らキャラクターはこの作品上において役を演じているのだと言わんばかりだ。

1巻129ページ:きわめて奇抜なアイデアで、読者の度肝を抜く。

1巻135ページ8コマ目、136ページ1コマ目:中盤からはダンディさを増す膝方だが、ここではいかにもダメ男のような口調で軽口を叩いている。

1巻136ページ2、3コマ目:そういえば当時の喫茶店には、コーヒーを供する際に「ミルクは入れますか?」と訊いてくる店があった。

1巻139ページ9コマ目:ロックミュージシャンの似顔絵かも知れないが誰だかわからない。ジャパンの誰かか?

それにしても、129ページ133ページがノド方向に断ち切られていることからも、この回も本来左ページ始まりだったとわかる。編集が雑だ。ページの左右は重要なケースもあるので変えないでいただきたいのだが。

■013話 プールでえいえいっ! 77/08/08(33号)

問題 小説になくてマンガにある重要な表現手段ってな〜んだ?

答え 扉絵

登場人物たちがダンスパーティーを繰り広げている扉絵。教師二人やこの時点では敵役のテディ・ボーイ・ギャング団、ドラネコロックのしげるくんも入っているし、まだお互い面識のないキャラクターもいる。マカロニほうれん荘のキャラクター登場扉絵には時折、本編以外の場面とでも言うべき絵が描かれており、扉絵一枚だけで外伝、スピンオフ、楽屋スナップ、別仕立ての話などになっている。そのことで本編の物語世界にも奥行きが生まれている。
それは登場人物たちが俳優化していることでもあり、また、マカロニの世界が深い部分では全員が仲の良い理想的共同体だということでもある。
今回の扉絵の背景は夏を表現しているのだと思うが、場所は雲の上らしく、作者が無意識のうちに天上世界を示唆しているようで不思議な感じだ。

8話に登場の理佳子ちゃんが手前にいる一方ルミちゃんは後方にいて、しかも後ろ向きだ。私は漫画家や編集者の仕事の仕方についてよく知らないしこの扉絵だけでどうこうも言えないが、ストーリーの中で誰をどう動かすかという計画は最初から練られてはいなかったとも思える絵だ。ストーリー中心のマンガで結末や人物の役割などを考えずに描き始めることはさすがにないと思うが、マカロニほうれん荘は一話読み切り形式なので長い計画は不要だと編集者、あるいは作者自身すら考えた可能性もある。しかしその意に反してこの作品は大きな時間的流れを内に孕むことになり、作者の首を絞めることにもなったのではないか。

2巻54ページ1コマ目:単行本3巻の「作者の言葉」に「最近ボクが男か女かという手紙をよくもらいます」とあるが、こういう絵を描いていれば当然そんな質問も来るだろう。このコマは特に狙っているだろうが、当時少年誌の中でこうした絵柄はたいへんお洒落だった。
中嶋敦子ちゃんが30話以降の大活躍に先んじて顔を見せている。

2巻56ページ7コマ目:根本的な認識違いに基づいたギャグ。

2巻69ページ:よく知らないけど、今の少年マンガだとこういう飲酒シーンもNGなのだろうか?

■014話 ああ!あのころは 77/08/15(34号)

扉絵:作中に登場する3人以外に、そうじ、クマ先生、文子先生の10年前の姿も描かれており楽しい。
長髪の膝方は多分一時期のジミー・ペイジをモデルにしたのだろう。

1巻143ページ5コマ目:そうじが16才になっている。入学からこの回までに誕生日を迎えたのだろう。誕生日は作者と同じかも。マカロニの世界内で時間が流れていることの一つの証拠と言えなくもない。

1巻143ページ8コマ目:ゴリラダンス初登場。ゴリラダンスという名称はそうじのツッコミから生まれたようだ。

1巻145ページ3コマ目:学生2人は誰かの似顔絵のようだが誰だかわからない。

1巻146ページ6コマ目:作者の出身校。

1巻150ページ1コマ目:「ほうれん荘の母」としてのまり子さんの振る舞いが非常に自然だ。かおりさんはこれほどではない。
1977年のほうれん荘は変な人物の溜まり場としては全盛期を過ぎていたとも言えそうで、60年代後半から70年代前半にかけて全盛だったロック音楽とつい比べたくなる。

1巻149ページ6コマ目〜151ページ3コマ目:52話を経由して118話に繋がっているエピソードで、かおりが膝方を初対面で強く意識した(≒恋愛感情を抱いた)シーンである……全編読んだ後でならそう解釈できるが、作者がこの時そこまで考えていたかどうかは微妙に思える。5話で雅子が言うように膝方には女性を魅了する印象がありかおりもそれに一瞬引っかかりかけた、と読んでもいいのではないか。この時点ではきんどーさんが言い、そうじも笑い飛ばしているように「あのころから二人は仲が悪かった」と単純に考えることもできなくはない。
とはいえ、確かにかおりが膝方に何かを感じたとも見える(なんというか、呪縛されているようだ)し、かおりがそうじを守ろうとしていたのは膝方を追い出せない気持ちがあったからだと推測すると膝方・かおりの恋愛ラインがごく初期から予定されていたことになる。また、かおりの抱いたのは恋愛感情だけだったのか、膝方から滲み出る「子供的感覚」への反応のようなものがあったのではないか……などと考え出すと私は答のない沼に足を踏み入れたようで気が滅入ってしまうのだ。考え過ぎだろうか?

こんな曖昧なエピソードをスッと提示できる作者は罪作りだと思う。

10年前のほうれん荘では、既にかおりの父の存在感がなく、この時にはもう(かおりに弟妹がいないので多分彼女の幼少時に)死亡していたものと思われる。かおりの祖父は下宿を「菠薐荘」と名付けた一風変わったユーモアの持ち主で、その息子がかおりの父。まり子はそこに嫁いできたのだろう。かおりは性格的には母親似で真面目だ。しかしかおりの父は父親(かおりの祖父)に似て変わった人だったのかも知れない。祖父と父の風変わりな性格がきんどーさん始めたくさんの奇妙な下宿人を菠薐荘に呼び寄せたという想像もできるし、案外膝方はかおりの父や祖父に似ていた可能性もある。

1巻153ページ4コマ目:この時期にはまだこんな膝方も見られる。中盤以降では考えられない。

1巻153ページ6コマ目:膝方とそうじが読者に直接語りかけている。時々使われる手法で、キャラクターの実在感が感じられて面白い。

■015話 学生の条件とは!? 77/08/22(35号)

扉絵:女の子が安全ピンを持っているのは、当時(今でも?)たくさんの安全ピンを衣服に刺すファッションがパンクスの間に広まっていたため。

1巻155ページ5コマ目:膝方さんの背にある「24 carat」はディープ・パープルのベストアルバム。他にも5話の最終コマにパープルのアルバム名があるので、この頃作者がよく聴いていたことがわかる。

1巻161ページ1コマ目〜162ページ1コマ目:何度見ても面白い。

1巻165ページ1コマ目:このコマはギャグなのでこの時にパッと思いついた設定なのかも知れないが、かおりさんのみならず文子先生も父親と若くして死別していることになっている。お姉さん型の女性二人とも父親がいないのだ。親がいないという設定によって、「精神的に自立している」「苦労してきた分タフである」「親がするべきことを自分でできる/既に親の役割ができる」「大人である」といったイメージが表現されているのだと思われる。
きんどーさんと膝方さんはマカロニの世界で生き生きと遊ぶ/暴れるために、自分達を受けとめてくれる友人(≒親の役割をする大人)をどうしても必要としていたようなのだ(最終回の膝方のセリフを参照)。そうじくんやクマ先生も親の役目を担わされているが、女性二人については設定からして役割がはっきり出ているわけである。
また38話では、おばさんを通してそうじの母の存在は示されているが、上記のことからそうじもまた父と死別あるいは離別しているという類推もできる。郷里にいる母も作品中には登場しない。
欠けているのが常に男親であるのは少し興味深い。
いずれにせよ、血縁的家族に穴が開いたところにマカロニほうれん荘の世界は芽吹いている。きんどーと膝方は同年代や年下の友人に親の役目を求め、かおり、文子、そうじ、クマらはそれに(内心は喜んで)応じている。彼ら・彼女らは「親子ごっこ」「家族ごっこ」をしているのではないか。そういう方向から見てもこのマンガは、「ずいぶんだだこねた」(1話)そうじのように血縁的家族から抜け出たい人間にとっての一種の理想的家族論、理想的共同体論なのだ。

1巻168ページ4コマ目:そもそも菠薐荘の大家でありアップルハウスの店主でもあるかおりは、四の五の言うまでもなく、マカロニ世界全体の親的存在である。殆どの読者がそれを直観的に感じ取っていることはまず間違いなかろう。このコマでもきんどー・膝方を心配して家庭訪問した先生を出迎えており、本当に二人の保護者のようだ。

1巻169ページ6コマ目:「帰りましょう、文子先生!」のセリフは34話最終コマにもある。

■016話 夏休みはキライ!! 77/08/29(36号)

扉絵:オールディーズ風のちょっと不良っぽい味わい。マカロニ本編とは違う時間と場所でこういう出来事も起きていたのだと想像することもでき、スピンオフ感、楽屋裏感があり楽しい。文子先生も夜遊びに加わっていて、本編とは違う彼女の側面が出ている。

2巻76ページ8コマ目:相沢薫が何者かはわからない。ググると同名の人が多少出てくるが……。

2巻78ページ2コマ目:由紀子とそう子は一緒に登場することが多いが、このコマや87ページ1コマ目で微妙に性格が描き分けられている。

■017話 祭りですわん!! 77/09/05(37号)

股旅、ミリタリー、ホームドラマ、お祭り、バイク&三輪車のカーチェイス、花火と、ころころ話の流れが変わる。この回から膝方さんに対する短大生トリオ、特にルミちゃんの感情がはっきりと恋愛に変わっている。

扉絵:パンクと日本髪、御用提灯の組み合わせ。漫画家というよりデザイナーの仕事の領域で、妙技。

1巻174ページ5コマ目〜175ページ4コマ目:マカロニ得意の「別場面スリップ法」。結末は176ページ1コマ目のように物悲しい。笑いとラブストーリーの相克関係──ギャグがラブストーリーの開始や進行を妨げる──がよく現れているが、これはこのマンガの際立った特質であり最終回に至るまで一貫している。

1巻176ページ2コマ目〜177ページ1コマ目:ルミちゃんに試練が続く。彼女は陽性のキャラクターだけれども、膝方との間に妨害が入ることも多く、全編通して内面に悲しみをたたえている雰囲気がある。

1巻181ページ2コマ目、183ページ5コマ目:「ラッタッタ」と描き文字があるのは、かおりのバイクがホンダの女性向けミニバイクで、そのTVCMに「ラッタッタ」というフレーズ(歌)が使われていたため。182ページで車体がきっちり描き込まれているが多分正確なのだろう。それにマンガのキャラクターがちゃんと乗っているところに画力を感じる。
ただ、ノーヘルは当時既に法令違反だった。

1巻185ページ:そうじが直接読者に語りかけている。キャラクターの実在感を高める上手い手法。

単行本の掲載順序は変で、この回は13話、16話の後ろでなければならない。

■018話 色はにテレビ!! 77/09/12(38号)

1巻189ページ6コマ目:そうじは美少年という設定だったとわかる。

1巻191ページ4コマ目〜8コマ目:「別場面スリップ法」。

1巻193ページ5コマ目:そうじも最早二人の親の役を担っていて、教育もしている。

1巻195ページ5コマ目:いちいちこんなコマがあるのもまた可笑しい。

1巻195ページ6コマ目:押し入れの中に29話で虫干しされる衣装などが入っている。

1巻196ページ4、5コマ目:そうじの表情の崩し方が激しい。
マカロニほうれん荘のキャラクターが生き生きしている理由の一つに表情を大きく崩せることがあると思う。漫画家だから出来て当然と言えば当然だが、崩しても人物の同一性を保たなければならないので、かなりの習熟が必要なのではないだろうか。

1巻197ページ1コマ目:「サクマのチャオ」は佐久間製菓から販売されていた飴形態のお菓子。飴玉の中にトロッとしたチョコレートが入っていた。今でもあるのかな?

■019話 家族のきずな 77/09/19(39号)

扉絵:すごいイラストである。シュールでエロティック。八頭身のそうじもカッコいい。これに続くのがギャグマンガだというのだから……。単行本で読んでいると流れていってしまいがちだが、雑誌に掲載された時のインパクトは絶大だっただろう。

2巻94ページ3コマ目:このイチジク浣腸のようなボウリングのピンのようなもの、その後もよく登場する。お尻攻撃用器具。

2巻97ページ3コマ目:「じょーだんだよ」は膝方がよく口にする言葉。しかし膝方のクマに対する態度はイジメと言ってよいので、ここではいじめた側の典型的な逃げ口上に聞こえる。クマに対してはきんどーより膝方の方がサディスティックである。

2巻100ページ2コマ目〜103ページ1コマ目:爆発、動き、静止が繰り返され、非常にリズミック。登場する衣装は、ツェッペリン、キッス、ベイ・シティなど。100ページ3コマ目の膝方さんは完全にジミー・ペイジ。

2巻104ページ3コマ目:シャレにならないレベルまでいってしまうのがいつものマカロニ・マナー。ゆかりさんやクマ太郎くんにも盛大に迷惑をかけている。

■番外編01 逮捕してくださいませ!! 77/09/25(増刊号)

スターシステム型スピンオフ作品第1弾。スピンオフは全部で8作あり、増刊号作品全4作は全てその中に含まれる。手塚治虫流のスターシステムが取り入れられ、各キャラクターが俳優となって、マカロニほうれん荘本編とは別の世界の脚本を演じている。スターシステムが最も多用された手塚作品「ブラックジャック」はチャンピオンの同時期掲載である。
キャラクターの性格可変域はマカロニの方が手塚作品よりも狭いようだ。つまり基本的性格は本編とそんなに変わっていない。このスターシステム手法により、キャラクターにより立体的な実在感が生じているように感じられる。

扉絵:中央の4人以外は、19話でのきんどーさん・膝方さんと同様ロンドンパンク的なファッション。当時本当にこういう格好をしたパンクスが沢山いた。時代の先端を映したイラストである。従来のロックファンの中にはパンクに反応しなかった人も多かったのだが、作者はすぐに反応したわけだ。

4巻70ページ1コマ目:練馬区高野台は杉並区井草からほど遠からぬ所。現在は住宅地だが70年代は森林だったのだろうか? 後半に当時がしのばれる背景が描かれている。西武池袋線の練馬高野台駅は1994年にできた比較的新しい駅。

4巻72ページ2コマ目:後ろの方で、膝方にスカートをめくられた女性がそうじに抗議している。この細かさがたまらない。

4巻80ページ5コマ目:そうじが身につけているTシャツやネックバンドも当時のパンクファッション。

4巻82ページ8コマ目:犯人との接触など本格的な捕り物が何も始まらないうちに終わってしまうのは惜しいとも思えるが、捜査を恋愛に置き換えれば、話の構造は17話でホームドラマごっこが挟み込まれるのと似ていることがわかる。何かが本格的に始まる前にギャグ(おふざけ、遊び)がそれをせき止めている状態を描いているのがこの作品なのだ。本格的に始まろうとしているのは特に恋愛であるが、もっと大きく言えば大人としての生活ということになる。

4巻83ページ8コマ目:だからクマ部長も二人を子ども扱いし「早くおうち帰っておねんねしなさい!」と言っているわけだ。

■020話 荒野のオンザロック 77/09/26(40号)

湿度0%、カラッと爽やかなギャグオンリーの回。どんなにラブストーリー的要素が増えてもこういう回は絶対に必要である。

2巻112ページ3コマ目:スナックごっこを二人だけでやるのではなく、そうじも誘っているところがポイント。

2巻112ページ7コマ目:この三人組が「テディ・ボーイ・ギャング団」と命名されている。テディ・ボーイは元々は20世紀半ばのロンドンの不良少年たちのこと。キャロルの曲「涙のテディ・ボーイ」から持ってきた可能性も。

2巻116ページ7コマ目、118ページ1コマ目:第2話1巻25ページ2コマ目の「ね!!」を思い起こさせる。「どうして一緒に遊ばないの?!」という意味を含んでいる。

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